横浜中央霊園

慶運寺について

当慶運寺は、室町時代。文安四(一四四七)年に定蓮社音誉聖観(芝増上寺三世)によって開創されました。本尊は、「阿弥陀如来」で、寺宝としては音誉聖観上人像一体と広誉是感上人像一体を安置しています。

昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲で被災全焼の本堂は、三十九世法誉心華代の昭和三十三年に再興され、庫裡の方は遅れて昭和四十七年の再興です。平成十四年には、本堂屋根の瓦葺が鋼板葺きへと改築されました。境内地の広さは一七一〇平方メートル(五一八坪)です。

さて、慶応三年(推定)春の神奈川宿大火で観福寿寺が類焼しました。観福寿寺は現在の神奈川区浦島が丘にあって浦島寺と呼ばれていましたが、このとき慶運寺に合併されました。焼失を免れた龍宮伝来の浦島観世音像と浦島寺の碑四基は、明治六年に観福寿寺から慶運寺に移されました。観音像安置のため明治七年建立の観音堂は大正十二年の大震災で倒壊しました。三十五世信響戒浄代の昭和十年に再建、同年、太郎像と乙姫像も新調しました。昭和四十七年の庫裡改築に伴い、本堂東側にあった観音堂は現在の本堂正面に移転となりました。

この観音堂は、旧小机領三十三カ所子歳観音霊場の第九番札所とされており、その御詠歌は「ただたのめ願いもついに神奈川の 浦島かけて深きめぐみを」です。浦島伝説関係資料のうち、前記の「観世音像」、観音堂脇の「淳和天皇勅願所古跡」碑、門前の「浦島寺」碑は、平成七年、横浜市の重要文化財に指定されました。この観世音像いわゆる観音様は、太郎が龍宮より帰る際に乙姫様から玉手箱と一緒に守り本尊として授かったものと伝えられます。柔和な面立ちの観音様です。亀の背上に立っているお姿を間近に見ることができるのは、十二年ごとの子歳開帳の期間だけです。

横浜開港当時、慶運寺はフランス領事館として使われ、初代領事のベルクールが滞在しました。慶運寺は通称「浦島寺」として一般に知られます。

吉祥山 茅草院 慶運寺

吉祥山 茅草院 慶運寺

第九番 浄土宗 護國山 浦島院 慶運

慶運寺内 観音堂

慶運寺
慶運寺
慶運寺
慶運寺

吉祥山 茅草院 慶運寺(きちじょうざん ぼうそういん けいうんじ)

住職氏名古屋道正(四十世)
境内諸堂本堂・庫裡・観音堂
寺  宝本尊 阿弥陀如来
年中行事施餓鬼会(7月5日)、花まつり
教化布教施本(年四回)
由緒沿革開山 定蓮社音誉聖観
開基 不詳
開創 文安四(一四四七)年

歴史

文安 4年(1447年) 江戸増上寺3世『音誉聖観』により開創
明暦 3年(1657年) 火災全焼・21世『廣誉是感』再建
明治 6年(1873年) 廃寺『浦島寺』より浦島観世音像ほか碑四基引き取る。
明治 7年(1874年) 観音堂建立
大正12年(1923年)
     9月1日
関東大震災被災・観音堂地震のため倒壊
35世『信誉戒澤』復興
昭和10年(1935年) 再建
昭和20年(1945年)
     5月29日
横浜大空襲被災
39世『法誉心華』再建
昭和33年(1958年)
本堂建立
現在に至る
慶運寺


笹本戒浄

ささもと かいじょう【笹本戒浄】(1874-1937)

明治-昭和時代前期の僧。明治7年1月14日生まれ。
25年東京増上寺で野上運海から法をうける。37年横浜の浄土宗慶運寺住職。
大正2年山崎辨榮の光明主義に帰依し、10年光明会の総監となった。
昭和12年7月26日死去。64歳。東京出身。東京帝大卒。旧姓は河田。号は清蓮社信誉善阿。
著作に「真実の自己」など。

※光明主義は最も発達せる「円具教」即ち円満具徳教であります。
 そして、これこそ最高級の宗教と申すことができます。