開基: | 槍尾賓慧法師 |
開創: | 天長年間 |
縁起: | 観福寿寺(浦島寺)は、天長年間真言宗の檜尾賓慧法印開基、弘安年間浄土宗の白幡寂慧上人中興。慶應乙卯春類焼、続いて住職視歿し、明治維新となり無住無壇廃寺の布令にあい、明治六年冬焼失を免れた龍宮傅来の尊像及び佛具を慶運寺に移し、翌七年観音堂建立尊像佛具安置、其の堂が大正十二年九月一日震災の為倒壊、昭和十年再建現在に及んでいる。 |
童話にある『浦島太郎』は日本人の誰でもが親しんだおとぎ話です。
浦島伝説は系統があって、それが故に日本中各地に浦島伝説が存在します。
木曽の「寝覚めの床」近くの浦島神社には浦島太郎が持ち帰ったと言われる「玉手箱」があります。丹後にある浦神社は浦島伝説と関わり合いがある事は周知の事実です。しかし横浜と丹後とは、いわく因縁がある様に思います。
慶運寺の龍宮伝来浦島観世音像は1995年横浜市重要文化財として指定を受けました。この観音様は浦島太郎が龍宮より帰る際、乙姫様から玉手箱と一緒に守本尊として授かったものとされています。柔和な面立ちの観音で亀の背上に立っています。
しかしお守りとしては、一寸大き過ぎ、亀の背中に乗って竜宮城から帰ってくる浦島太郎は玉手箱と、この観音様をどのように持ったのかが疑間です。しかし古文書によると浦島太郎が背負った観音像が余りにも重く、へたりこんだ場所が浦島太郎の両親の墓であったとか。そして雨のように流れ出た涙が岩石を浸し、成仏寺の「浦島太郎の涙石」に成ったそうです。近辺に「浦島ヶ丘」「亀住町」などの地名が現存します。
また亀住町の浦島地蔵、
子安町の浦島足洗井戸、などがあり、全国の浦島伝説のなかでも一番信憑性が高いと考えられます。
本来横浜浦島伝説に纏わる寺は観福寿寺で、現在浦島ヶ丘にある浦島中学校のそばにあった様です。明治元年一月現在の神奈川新町近くにあった遊廓『桑名屋』から出火により周辺から生麦あたりにかけての大火は、観福寿寺と浦島伝説に纏わる寺院を焼き払いました。幸いに浦島観音像は類焼を免れ、明治6年現在の慶運寺に移設安置されたとのことです。
寺記の一節に『相州三浦の住人水江浦島大夫といへるもの、大裡の役に付きて、しばし丹後国与謝郡管川と言うところに移り住みす。其の子に浦島太郎というあり。』とあります。相州の住人(神奈川県民)である浦島太郎の父親は官命により丹後国へ転勤をさせられたので、浦島伝説は丹後にもあるのではないでしょうか? 慶運寺には文安4年(1447年)江戸増上寺3世『音誉聖観』により開創され、現在40世 住職古屋道正氏により護られています。
浦島太郎像
乙姫像
●観福壽寺(通称浦島寺)は天長年間(824~833年)に開かれた。浦島太郎が雄略天皇22年(478年)に龍宮へ行き、淳和天皇時代の天長2年(825年)故郷へ帰るときに、乙姫さまからお守りに授かった観音像を両親の墓のそばにお堂を建てて安置したのがお寺のはじまりであらう。
●この観福壽寺は慶応3年(1867)・推定・に類焼し、明治5年(1872)に廃寺となる。そして、明治6年(1873)に当慶運寺の境内へ観音像碑4基が移された。翌明治7年(1874)に観音堂が建てられて、そこに観音像は安置された。
●大正12年(1923)の関東大震災の際に観音堂は倒壊し、昭和10年に再建された観音堂に観音像が安置されて現在に至っている。
●観福壽寺は、現在第二京浜浦島丘の入口にある県立計量検定所のあたりにあった。
●浦島町と云ふ町名は昭和50年代神奈川通9丁目のあたりを町名変更してつけられたもので古い町名ではない。
●浦島伝説に関しては色々な本があるが、当寺所有の江戸名所図会(天保7年版)によれば大要次ぎのとほりである。浦島太郎の父親浦島太夫は相州三浦の住人で大裡(たいり)の役について丹後の国へ行き、そこで生まれた浦島太郎が小舟に乗って釣りに行き、亀を釣ったが普通の亀と違うので逃がしてやった。しばらくしてその亀は美女(乙姫さま)となってあらわれ、逃がしてくれたお礼にと手をたづさへられ太郎は龍宮へ連れて行かれた。太郎は色々楽しい思ひをしたが、故郷へ帰りたくなり、乙姫さまにとめられたが帰る決心をした。そして、玉手箱と、ほかに無事に故郷へ帰り長生きするようにとお守りとして観音像を與えられ、太郎は丹後の国ヘ帰ってきた。ところが、父母も死に家もなくなり、様子が変わってゐたので親の故郷へ向かって来たところ、神奈川まで来て観音像のお告げで両親の墓がわかった。そこで前述の如く、太郎は墓のそばにお堂を建てて観音堂を安置した。
●前述の如く、江戸名所図会には、浦島太郎は雄略天皇22年(478)に龍宮へ行き、淳和天皇時代の天長2年(825)に故郷へ帰ってきたと記され、此の間347年になる。此れは、日本紀・日本後紀の記事の引用で、おとぎ話の浦島太郎は龍宮へ行き3年たつて故郷(丹後)へ帰ったのに、すでに三百年もたってゐたと云ふ話は、このやうな古典に基づいて作られたものであらうと思われる(住職推定)。
●浦島寺から移された碑2基に徳本行者(とくほんぎょうじゃ)と彫られてゐる。 徳本行者は江戸末期、念仏の信仰をひろめた名僧で、浦島寺に信者が多かったので此のやうな碑がたてられた。稗のひとつの台石の裏に観福壽寺と彫られてゐる。
●江戸名所図会には、一般に知られてゐるおとぎ話と同じやうに、次のやうにも記されている。「龍宮から帰るとき、乙姫さまから、また龍宮へきたければこの玉手箱をあけてはいけません、と言はれ約束したが、故郷(丹後)へ帰って余りの変わりやうにがっかりして約束を忘れ、玉手箱をあけたら、紫の雲が龍宮へ向かって行き、浦島太郎はおとろへた老人になった。」
●万葉集にも浦島太郎の記述があるので、古い伝説であることがわかる。
慶運寺住職記述 2004/12/07